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殿様商売と言うけれどpart2・・・成田山と精進落とし
 “伊勢に行きたい、伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも……♪”と唄われた「お伊勢参り」。それまで限られた人のものだった「お伊勢参り」も、江戸時代になると60年周期で、爆発的な人が押し寄せる現象が起きました。文政十三(1830)年には、半年間で500万人も訪れたとか。当時の人口が3000万人くらいですから5、6人に1人はお参りに行った計算になります。好き勝手に旅行することが禁止されていた時代、庶民にとっておおっぴらにうさばらしができる絶好の機会だったのでしょう。
※写真は成田山新勝寺
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 そもそも旅、旅行業の始まりと宗教は深い関わりがありました。江戸時代になると信仰を名目にして、実質は物見遊山という旅が流行ります。すなわち伊勢講、冨士講が各地に生まれ、発展したのです。講の仕組みは、まず参加する人を集める。参加する人は一定の会費を毎年納める。一人の金額は小さいが、講中の金額を全部集めるとまとまった金額になり、一人、二人が伊勢神宮にお参りする旅費が捻出できる。そこで籤を引き、籤に当たった代表者が講を代表して伊勢神宮に参詣する。しかし講は続くわけで、当たらなかった人は次年度以降に当選する可能性がある。また今年、運良く当たった人も講に参加している訳で、来年以降も会費を払う必要がある。つまり、講が続いている限り、参加者全員が公平に伊勢詣できる制度だったのです。籤に当たった人は、代表しての参加ですから、餞別をもらうこともあったでしょう。また伊勢詣できなかった人に、お参りの土産も必要になったでしょう。この習慣が今に続いている「旅行におけるお土産」の原点と思われます。お参り(旅行)に来てもらう伊勢神宮や富士山の浅間神社の方も、全国的な集客システムを作っていました。伊勢神宮から各地に「先達」(ガイド、添乗員)を派遣して、講の組織作りを奨める。地域別の営業担当です。そして「先達」が各地の講の代表者を伊勢神宮に引率してくる。伊勢神宮に着くと今度は「御師」(宿坊経営者)が待っている。「御師」も地域別の担当ができていたようで、例えば三河の講中は「三河屋」に宿泊するような仕組みです。この「御師」における”もてなし”は凄いものだったようで、山海の珍味が豪勢に出され、伊勢神宮の参拝における案内はもちろんのこと、周辺の観光ガイドもいたれりつくせり。寝具は家では使ったこともないようなものと言った具合だったそうです。当然、参加した講の代表者は感激して家路につきます。この評判が伊勢神宮への旅行熱をさらに煽り、講の参加者を増やしたことは言うまでもありません。伊勢講、冨士講などの仕組みは見事な旅行業のシステムです。当時は旅につきものの女郎屋なども軒を連ね(伊勢神宮は明治になって国家神道の中枢になり、これらの施設は除去されました。)先達はこれら悪所にも講の参加者を案内しました。こうして「精進落とし」を仕組みとして成立させていったのです。
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 成田山にしても、こうした仕組み作りをしてきた歴史のあることが「日本を歩き尽くそう」というホームページを見るとわかります。(以下HPより)成田山新勝寺は、平安時代・天慶3年(940)における平将門の乱勃発の際、空海が自ら刻んだ京都神護寺に安置されていた不動明王を祀って賊徒鎮定の護摩を修めたところ、乱が鎮まったので、これに感謝し、下総国公津ケ原(現在の成田ニュータウンあたり)に寺をおこしたのが始まりです。名の由来は「新たな敵(平将門)に勝った」ことにちなんだもの。新勝寺は中世には衰退したものの、戦国時代の1566年に現在地に遷り、近世に入り佐倉藩の祈願所として復興しました。特に元禄年間に入山した昭範上人が、かなり商売上手な人物で、不動尊の霊験を広く宣伝し、諸堂宇を造営、寺観を整え、隆盛の基礎を築いたそうです。この昭範上人の宣伝スタイルは現在にも通用するほどのもので、今で言えば武道館公演にあたる「江戸出開帳」(本尊を江戸にて出張公開する。江戸から明治にかけて15回実施された)、有名タレントをキャラクターに使用するように地元出身の歌舞伎役者・市川団十郎と提携(不動尊の効能により団十郎は子宝が授かったとされる)、五代将軍綱吉の生母・桂昌院や佐倉藩主・稲葉正通など幕閣へ取り入りなど、見事なマーケティングを行いました。現在の門前町は、元禄14年(1701)頃にはひなびた農村でしたが、新勝寺の発展・成田山信仰の流行とともに勃興し、享保年間(1716~1736)には現在のような門前町の基礎ができたとされています。
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 新勝寺の江戸時代の興隆は凄まじく、各地で参詣のための講が結成され、江戸から3泊4日の旅という手頃なレジャーとして認知されるようになり、成田山は賑わいました。明治以降も信仰は衰えるどころか、かえって鉄道開通で参詣者は増え、成田線は日本で初めてビュフェが登場したことで知られます。また、日清・日露戦争で出兵した兵士も安全祈願で成田山の札を持ち歩くのが流行していたようです。つまり、ここで言いたいのは成田山の賑わいは歴代のさまざまな人々が作り上げたモノだと言うことです。「お参り」「精進落とし」という旅の仕組みは長い歴史の中で日本人にインプットされてきました。しかしまだまだ時代に合わせ工夫し作り直して良いはずなのです。正に作り上げてきた歴史が日本の旅なのですから。お参りの時期をいかに増やすか。一泊したいとまで思える楽しみをいかに作るか。土産物屋・飲食店・旅館が立ち並んでいますが、名物がようかん、ウナギ、鉄砲漬けだけでお参りに来た老若男女、各国の人々が納得するでしょうか。決して参拝は年寄りだけのものではありません。若者にもアピールします。初詣が決して廃れないのは、日本人が信心深いからではないでしょう。年に一度のイベントとして楽しいからです。それならば楽しいイベントを初詣以外にも作れないでしょうか。歴史を守るではなく、作るという意識、それこそが参道を常に賑わす源と思います。(続く)
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